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希望 明日へ――262日目の陸前高田

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岩手・陸前高田「一本松」(撮影=林昌宏)

普段写真を撮っている私は、この大震災を自分の目で撮りたいという気持ちが常にありました。一方で、被災者にカメラを向けることへの躊躇もありました。
 「津波に耐えた陸前高田の一本松の写真が欲しい」。
 その言葉に背中を押されるように陸前高田市へ行ってきました。

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いまも「祈り」が続く 山田洋次監督が訪れた際にかかげられた黄色いハンカチ すべてが流された陸前高田市街

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11月28日。大震災から262日目の岩手県陸前高田市です。
 海岸近くはがれきが山脈のように積み上げられています。市街地であった場所は壊滅状態で、街のメインルートは車の通行こそ確保されていますが、一歩横は建物の土台だけになった荒地状態です。
 流されずに残った建物がポツリポツリと立っています。
 復旧用の重機の音。ダンプカーがしきりと往来し、一般の車は通過するだけです。
 それにしても津波の力には驚くばかりです。河口から二本の橋が橋脚だけを残して流されています。橋脚と橋を固定する金具が、引きちぎられているのです。

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地元の日本共産党と民主団体等で運営する「共同支援センター」で話を聞きました。
 陸前高田市は、街全体が壊滅状態となり、すべてがなくなった。
 街をゼロからつくるという、他とは違った難しさがある。
 2200戸の仮設住宅が50カ所にあって、その半分は学校の校庭に立てられている。
 校庭での仮設が長期化するのはよくないので、別の場所への移転を検討している。
 11月中には、市の復興計画をまとめる予定だ。
 ある時期から高台を利用しないで街づくりをしてきたことが反省的に話されました。
 共同支援センター前の広場では青空市が開かれていて、「全品無料ご自由にお持ち下さい」と、防寒具や靴等が並べられていました。

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プレハブのスーパーマーケットの前で話をしていた、二人の女性に震災について聞きました。
 「この人の息子さんは、皆を助けようとして自分も犠牲になったの」。
 年配の女性がこう話し出すと、脇の女性はぽろぽろと涙を流しました。
 市の職員で消防団員であった息子さん(49歳)は市の体育館付近で避難誘導を行っていて犠牲になりました。避難場所となっていた体育館が津波を受けて百人以上が犠牲となり、助かったのは三人だけだったそうです。

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この日もう一人、息子さんを亡くしたという女性に会いました。
 消防団員の息子さん(48歳)は自宅のすぐ下の公民館の避難所が危なくなったので、近くのお寺に避難させるため誘導していたといいます。
 車椅子の人を助けて逃げる途中だったのです。
 「あの寺の石段は最初の踊り場まで16段、その先に49段あるんです。その石段の途中で」、と女性は声を詰まらせました。
 石段はかなり急こう配で、登り口の大きな石碑は倒れたままになっていました。

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黄色いハンカチののぼりを見つけました。
 柱には「希望よ永遠に」と墨書された板が取り付けてありました。映画の山田洋次監督がこの地に激励に来た時建てたそうです。
 そこへ、この土地の地主さんが来て、東京からきたと言うと、「座って休んでいけ」といます。この地区は500世帯あって137人が亡くなったといいます。
 地主の方が続けます。
 「避難訓練は毎年やっていて、3月11日の3日前にも訓練があった。しかし500世帯あって10数名しか参加しなかった。避難訓練は自分たちでやるものだ」と。

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2日間で20名ほどの人に話を聞きました。
 最初は被災した人たちが、話してくれるのか心配でしたが、話してみると皆さん驚くほどていねいに話してくれました。
 帰京後、津波に耐え、人々に生きる勇気と希望を与え続けてきた「一本松」が、力つきるとのニュースが流れました。
 寂しい。しかし4〜5年後には、一本松から生まれた苗木が立派に育つといいます。
 大変な苦しみと悲しみを乗り越えて、皆が新しい街づくりに力を合わせて、復興がすすむことを願わずにはいられません。(写真・文 林昌宏)


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